宮本武蔵没後三年
流租誕生
宮本武蔵
無外流の流租は辻月丹資茂(すけもち 幼名:兵内)。
日本人だけではなく、世界的に有名な宮本武蔵が没して三年。
慶安元年(1648年 徳川家光の世)に誕生しました。
生誕の地は近江の国甲賀郡 宮村字馬杉。
13歳の時京都に出て山口流の山口卜真斎につき、その後13年に渡り山口流剣術を学んでいます。
この間愛宕山に祈誓したり、北陸越後のあたりを武者修行で回るなど、すでに戦国の気風もどこかへ過ぎ去り、間もなく元禄を迎えようという当時の時勢を考えれば相当風変わりで遅れてきた感があったのではないでしょうか。
26歳、山口流免許皆伝
江戸へ
26歳の時兵内は師匠より山口流の免許を認可されました。
同時に江戸出府を許され、 麹町九丁目に道場を構えることになります。掲げた看板は山口流兵法。
しかし、名もない田舎兵法者として相手にされず、わずかばかりの弟子と稽古し、修行をしたと言います。
無外流と禅、
その入口は麻布吸江寺
無外流と禅が切っても切れない関係になるその出会いがこの頃。
兵内は、学問と心の修養の必要を感じ、麻布吸江寺の石潭禅師に師事したのです。
学んだものは禅学と中国の古典。
その後石潭禅師が遷化されたため、続けて第二世・神州和尚について参禅。
元禄の江戸に無外流、誕生
45歳の時悟りを開き、神州和尚は師石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えました。
一法実無外(一法実に外無し)(いっぽう じつに ほかなし)
乾坤得一貞(乾坤一貞を得)(けんこん いってい を う)
吹毛方納密(吹毛まさに密に納む)(すいもう まさに みつに おさめ)
動着則光清(動着すれば光清し)(どうちゃく すれば すなわち ひかり きよし)
これにより、兵内を改め月丹資茂(げったん すけもち)と名乗りました。
また、流名を偈よりとり無外流としたのは、元禄6年(1693年)。
ここに無外流が誕生することになりました。
元禄最大の事件、赤穂浪士の吉良邸討ち入りが元禄15年ですから、事件の9年前のことです。
赤穂事件