中興の祖 中川士竜申一
無外流を整理し、「中興の祖」と呼ばれるのは高橋家から継承した中川士竜申一です。(敬称略;竜の記載は石井悟月先生の記載による)
その師は高橋赳太郎。
すでに自鏡流居合は無外流居合と呼ばれていたようです。
この高橋伝の無外流の形は孫の高橋秀三と中川士竜に受け継がれました。
中川士竜は戦後、無外流の整理編纂を図り、「無外流居合兵道」として普及させました。「無外全書」「無外真伝兵道考」を著すなど、現在の隆盛の基礎を作ったと言えるでしょう。
無外流居合兵道考
中川士竜にインタビューしたとされるものの中には、師の高橋赳太郎の紹介で土佐土方派の川崎善三郎の指導を受けたことがある、と記載があると言います。
高橋伝とは違う系譜の技も編纂し、無外流居合兵道として整理、現在に残したと推測されます。
私たちが今日無外流を系統だって学べるのは、中川士竜の足跡あってのことと言えるでしょう。
姫路藩酒井家の系譜の後継者
姫路藩酒井家の系譜を整理した中川士竜の後継者については、裁判も行われるほど紛糾したことが知られています。
その関係で現在はいくつかの道統が存在することとなりました。代表的なところでは、石井悟月善蔵の系統、塩川寶祥照成(ほうしょうてるしげ)の系統、中川士竜の晩年に皆伝を授かった師範たちの道統、そしてその皆伝をさらに授かった新名玉宗明思派宗家の道統。さらにここから分派した系譜や皆伝を得ることなく分裂したグループに至っては悲しいことですが枚挙の暇がありません。
無外流の系譜
初代 | 辻 月丹 資茂 | 1648年〜1727年 | 無外流祖 江戸 |
第二代 | 辻 右平太 | 〜1742年 | 江戸 |
第三代 | 都治 記摩多 資英 | 〜1761年 | 江戸 |
第四代 | 都治 文左エ門 資賢 | 〜1787年 | 江戸 |
第五代 | 都治 記摩多 資幸 | 〜1812年 | 江戸 |
第六代 | 高橋 八助 充亮 | 1750年〜1809年 | 姫路藩 |
第七代 | 高橋 達蔵 充玄 | 1784年〜1835年 | 姫路藩 |
第八代 | 高橋 八助 成行 | 1816年〜1880年 | 姫路藩 |
第九代 | 高橋 哲夫 武成 | 1830年〜1876年 | 姫路藩 |
第十代 | 高橋 赳太郎 高運 | 1859年〜1940年 | 大日本武徳会 |
第十一代 | 中川 士龍 申一 | 1896年〜1981年 | 居合道連盟 |
免許皆伝者 | 中谷 臣志 | ||
免許皆伝者 | 白井 亮太郎 | ||
免許皆伝者 | 戸田 誠寿 | ||
免許皆伝者 | 岡本 義春 | ||
免許皆伝者 | 小西 御佐一 | ||
免許皆伝者 | 長沢 正夫 |
中川先生は石井悟月先生に第12代宗家を継承させた後、諸事情で石井先生が中川先生のもとを去った為、残った門下の中から次の宗家を決めずして亡くなりました。この為、免許皆伝を受領した人や免許を受領した人達が勝手に「何代宗家」と称していますが、残った中川先生の門下の中で、全日本剣道連盟・全日本居合道連盟・日本居合道連盟や日本全国で無外流を稽古している独立団体の総ての人達が認める「第何代宗家」といわれる宗家はいません。全て「私称」です。
それぞれ、○○派宗家というのが正しい呼称です。